トライアーティスト竹内鉄平

トライアーティスト竹内鉄平

この度、ブログを新しく立ち上げました。
初めましての方もみえると思いますので改めまして自己紹介を。

株式会社トライアーティストの代表の竹内鉄平です。
1976年12月生まれ(いて座・O型)、愛知県知多市出身です。

競泳からトライアスロンへの転向

3歳から水泳を始めて、中学・高校は水泳部に所属。決して速くはなく、どんなに頑張っても県大会予選落ちレベルでしたが、泳ぐことは何よりも好きでした。

基本的には文系人間で、漫画や小説好きを拗らせ、大学は文化人類学を専攻(完全に趣味の領域)、しかし、将来こうなりたいという夢や目標があるわけでもなく、ただ何となく流されて生きている感じでした。

長距離を走るのが好きだったのと、日本トライアスロン界の黎明期からトライアスロンをしていた父の影響もあり、大学からはトライアスロンがやりたいと思っていたのですが、部がなかったので、水泳部に入部しました。

高校までは、言われるがまま、とにかく量をこなすトレーニングが中心でしたが、大学に入ってからは、自分たちでメニューを組み立て、またスイミングスクールでコーチのアルバイトを始め指導をするようになったこともあり、どうやったら速くなるのか?を自分の頭で真剣に考えるようになりました。

その結果、それまでこれくらいが自分の限界だろうと思っていた壁を越えて、タイムは伸びていきました。そしてそのタイミングでトライアスロンに本格的に取り組むことに決め、水泳部を退部し、トライアスロンの世界に飛び込みました。

競泳も続けるか?トライアスロン一本でいくのか?その時は結構悩みましたが、これが自分の人生を大きく変えていくきっかけになります。

トライアスリートとしての適性

トライアスロンに転向後、第1回のJTU認定記録会(東京)に出場します。当時は、スイム1500m+ラン10㎞でした。スイムが18分くらい、ランが35分くらいだったと思います。当日はまだ参加人数も少なかったこともあり、強化指定選手に選ばれ、大学3年の時にエリートレースの天草大会に出場することに。結果、アジア選手権スビックベイ大会の日本代表に選ばれます。競泳では、県大会予選落ちの自分がまさか日本代表になれるなんて思いもしませんでした。

アジア選手権は、11位と初海外レースの洗礼を浴びましたが、そこからワールドカップ、大学世界選手権等へも出場権を獲得し、着実に経験を積んでいきます。4年生の最後のインカレでは、優勝を目指して、スイム・バイク・ランと独走するものの、ラスト3㎞地点で失速。3人に抜かれてしまい4位となり、非常に悔しい想いをしました。

いくら競技人口が少ないとはいえ、1種目では、全国へいけなかった自分が、日本代表になれるたのは、トライアスロンの「適性」があったのだと思っています。当時(1995~2005年前後)も、水泳全国レベルの選手や箱根駅伝出場クラスのランナーがトライアスロンに転向することは珍しくありませんでしたが、トライアスロンでは自分が勝つことができました。(今はどの種目においても各種目のトップレベルの力がなければ、勝負になりませんが…)

そんなこんなで、トライアスロン沼にどっぷりとハマっていくのでした。卒業後もトライアスロンを真剣に続けていきたいと考えていたところに、地元の自動車部品メーカーがトライアスロン競技部を立ち上げるということで、タイミングよく声をかけて頂き、卒業後は、実業団トライアスリートとしての道を選びます。

実業団トライアスリートとして

社会人としての基礎スキルを職場で学びながら、半日はトレーニングの時間をもらえ、合宿にも月に1度ペースで行かせてもらえるという恵まれた環境でトライアスロンに打ち込んでいきます。恵まれた環境であるからこそ、結果を出さなくてはいけません。入社2年目の日本選手権(長良川)では2位、3年目(お台場)は3位となり、日本ランキングは2年連続3位。ITU世界選手権にも4年連続で出場することができました。

会社からもオリンピックへの出場を期待されるようになります。しかし、世界の舞台で戦うことは生易しいものではありません。シドニー、アテネと最終候補には残ったものの、代表争いで敗れて落選。会社から戦力外通告を受けることになります。会社の看板を背負って、競技をするのであれば当然の結果です。その時自分は27歳。普通であれば、一社員として会社に残る道もあり、周りからもそう勧められました。

しかし、競技を続ける中で自分には夢が出てきていたのです。自分が好きなトライアスロンというスポーツをもっと多くの人に知ってもらいたい、文化として普及させたいという夢です。それは海外遠征時、トライアスロン先進国であるオーストラリアのゴールドコーストや、アメリカコロラド州のボールダーで見た光景と経験が大きな影響を与えていました。早朝から多くの人が競技レベルを問わず集まってトレーニングセッションを行っている光景はその頃の日本では考えられないカルチャー(文化)でした。

オーストラリアゴールドコーストでのセッション風景

それをやろうと思ったとき、会社という組織の中にいてはできないと感じました。また会社という本業があっては、それに甘えてしまって中途半端になると思い、自分は会社の退職を決意しました。何か後ろ盾や確信があったわけでありません。その時の自分にあったのは、「トライアスロンで食べていく」という覚悟でした。

トライアーティストの誕生

まずは自分でHPを自分で立ち上げて、それまでお世話になっていたスイミングスクールでアルバイトをしながら、トライアスロンのコーチ(指導者)としてのスタートを切りました。もちろん一番の目的であった現役の選手としても活動しながらです。もちろん、スポンサーがつくはずもなく、失業手当とバイト代で何とか生活費をやりくりしながら、非常に厳しい生活を送っていました。ですが、誰にも管理されることなく、自分のやりたいことができるというのは自分に合っていると感じました。失敗もたくさんしましたが、絶対に成功するというイメージだけはありました。

今でもそうですが、自分は「指導する」というよりは、「一緒にトライアスロンを楽しむ」というスタンスです。最初は数名だったスクール生も徐々に増えていきました。生涯現役アスリートとして、自分自身が広告塔となり、その活動を見て共感したり、応援したりしてくれる人が増えることで、ビジネスとしても成立すると考えました。

かねてから興味のあったロングディスタンスにも挑戦し、日本選手権佐渡大会で2位、宮古島大会では10位となりましたが、自分としては駆け引きのあるショートの方が向いていると思い、5年ほどでショートメインに戻ります。

個人事業主ということで、当初はスクール事業のみでしたが、トライアスロンを普及するための大会を企画・開催するスポーツイベント事業、トライアスロンギアの開発・販売事業も始めました。トライアスロンというマイナースポーツ分野においては、一つの事業だけでは食べてはいけません。トライアスロンにはスイム、バイク、ランがあるように、ビジネスにおいても、複数の事業をバランスよく行うことで、ようやく安定させることができます。

それらの事業を基盤に、2012年に株式会社トライアーティストを設立、起業家としての道を歩み始めます。社名は、トライアスロン+アーティスト(表現者)から。トライアスロンスクールの名前はアスリート魂を略して「あすたま」としました。現在は、愛知県内4拠点でスクールを開講、会員数は150名を越えています。ライフスタイルとしてのトライアスロンを社会に広めていくことをミッション(使命)として活動しています。

2019伊勢志摩・里海トライアスロンクラブ対抗戦部門総合優勝

あすたまトライアスロンスクール公式サイト
https://school.triartist.co.jp

ウェットスーツ「鏡花水月」「水陸両用」公式サイト
https://ws.triartist.co.jp