どうするトライアスロン第8回「トライアスロンはオワコンなのか?」

どうするトライアスロン第8回「トライアスロンはオワコンなのか?」

トライアーティストの竹内鉄平です。
トライアスロンシーズン真っ盛り、皆様どうお過ごしでしょうか?

私はというと、蒲郡大会のスプリント部門に出場、伊勢志摩大会をレースディレクターとして運営、国体・日本選手権予選会の東海ブロック木曾三川公園の応援、そしてエイジ大会である長良川国際トライアスロン大会の応援と、毎週何らかのトライアスロンに関わる行事がありました。

選手、コーチ、大会運営者、経営者として、様々な立場でトライアスロンに関わる中で、思ったこと、考えたことを、今回はトライアスロン界への提言という形で述べさせていただきます。

歯に衣着せぬ忌憚のない言い方をすれば、以下の通りです。

「あえて言おう!トライアスロンはオワコンであると!」

そんな馬鹿な!?
トライアスロンがオワコン(終わったコンテンツ)とはどういうことか?
興味を持たれた方、憤りを感じた方は、ぜひ最後までご一読ください。

埋まらないエントリー

まず現状から目をそらさずに正しく認識することが大切です。

コロナ騒ぎが終息し、大会も例年通りに開催されるようになった2023年、顕在化したのが、多くの大会で、定員(定数)に対して、エントリーが埋まらないという状況です。

これはトライアスロンに限った話ではなく、マラソン大会、トレイルランレースでも同じような状況が起きていることから、原因の一つにあるのは「社会情勢、ライフスタイルの変化」が挙げられます。

一番大きい変化としては、日本の社会全体が「貧困化」してきているということです。コロナ禍による業績の悪化(弊社も20年・21年はほぼ売上半減、22年にようやく3分の2程度まで回復)、物価の上昇、度重なる増税により、趣味や余暇時間に使えるお金が減ってきているのです。

特にトライアスロンのように、お金がかかるスポーツにおいては、真の富裕層にとってはそれほど影響がなかったとしても、小規模事業者、中小零細企業経営者や一般的なサラリーマン家庭にとっては、そのダメージは深刻です。

僭越ながら、トライアスロンを中心に人生を送ってきた私自身の実体験の話をすると、コロナ前までは、年間7~8レース(多いとしては10レース以上)参加していましたが、今はとてもそんな経済的な余裕はありません。

そうなってくると、出られるレースは多くても年間2~3レースとなり、今まで以上に出場する大会を厳選するようになります。本当に自分が出たいと心から思える大会に出場するようになりました。

ちなみの今年、自分が参加した大会は、XTERRA根の上高原と蒲郡大会のスプリント部門のみです。もう一大会くらいは出たいなと思っていますが…。

話を戻しますが、これまでトライアスロン大会の定員がほぼ埋まっていたのは、競技人口が多かったから、ではなく、一人の方が年間で複数回大会に出場していた、つまり「かさ増しされていた」からだとも言えます。

それと同時にコロナ禍で実際にトライアスロンから離れていった方もいると思います。今後は少子高齢化に伴い、新規にトライアスロンをはじめようという若者も今以上は多くなるとは考えにくいでしょう。

出場する選手数が減少するということは、大会のレベルも下がりますし、盛り上がりに欠けます。またそれはスポンサーにとっても協賛メリットが薄くなるということなので、大会における資金面でも厳しい状況になるということです。

トライアスロンを取り巻く社会状況の変化

トライアスロンは過去何度か「ブーム」と言われる時期がありました。1980年代後半から1990年代前半、「バブル経済」という空前の好景気に後押しされた第1次トライアスロンブームでは、「鉄人のスポーツ」というイメージが定着。大会の協賛スポンサーも大盤振る舞いで、トライアスロン大会は、今とは比べ物にならない華やかなお祭りイベントでした。

自分はこのブームの終焉時期(1995年前後)とほぼ同時にトライアスロンを本格的に取り組むようになりましたので、その時の残り香を感じることはできました。その時は、トライアスロンの将来に希望を感じており、この素晴らしいスポーツを世の中に広めていかなくては!という使命感が自分をトライアスロンの道へと誘ってくれました。

そして、第2次トライアスロンブームが、2007年の東京マラソンから端を発した市民マラソンブームに牽引されるように、トライアスロンもその恩恵を受けた2010年代です。島田紳助さんの行列のできる法律相談所で、メンバーがトライアスロンに取り組む姿が全国ネットで放映されたことによる相乗効果もありました。

2010年代後半になると、徐々にその勢いも落ちて来ている中で、2019年までは、2020東京オリンピックに向けての期待感もあって、まだ自分の中にもトライアスロンに対する微かな希望のようなものもあったと思います。

そこで訪れたのが、新型コロナウイルス騒動という「社会現象」です。
それにより一気に社会は変貌を遂げてしまいました。

平和の祭典であるはずの2020東京オリンピックは、アスリートファーストとは名目だけとしか思えないようなドタバタ劇が繰り広げられ、それまで頑張ってきたアスリートですら社会からのバッシングの対象となり、終了後も汚職五輪という不名誉な名称が与えれるという、まさにそれまでの金メッキがはがされるという結果になってしまいました。

これもトライアスロンだけの話でないですが、そうした社会のスポーツに対する捉え方の変化、風潮のあおりを受け、市民参加型スポーツであるトライアスロンも不遇の時代を迎えることになります。

大会運営としては、地域からの賛同、協力が得られにくくなり、コースを縮小せざるを得なくなる、ボランティアや協賛金が集まらないといった面です。

それに加えて、エントリーが埋まらないということで、大会の予算が悪化し、サービスを削らざるをえなかったり、エントリー費を値上げせざるを得ない状況になっていきます。その結果、選手の大会離れが進むという悪循環。

正直このままでは、多くの大会が運営困難となり、来年以降淘汰されていくことになるでしょう。

それはマクロな視点で見た時の話なので、トライアスロン界自体がどうこうという話ではありません。社会自体を変えていく必要があります。

その一方で、トライアスロン界自体に内包する問題点もあると自分は考えています。こちらの方が今回の本題になります。もう少しミクロな視点、自分の個人的な経験から今回の問題を捉えてみたいと思います。

トライアスロンを衰退に導くもの。

ここからは自分の視点に沿って、話を進めていきます。
当然、主観が入っていますので、これがすべて正しいとは思いませんが、一経営者として、トライアスロンで飯を食っている自分だからこそ、語れることがあると思います。

特に「スポーツイベントとしてのトライアスロン」を衰退に導くものがいるとすると、それは「トライアスリート自身」であるということです。

それはどういうことか?
自分の実体験から得られた感覚的なものです。
しかし、それを言語化することが必要であると今は強く感じています。
その想いが消えないうちに、この文章を書いてみます。

泳ぐ、自転車を漕ぐ、走るといったスポーツアクティビティ自体には、特にルールはありません。自分のペースで、自分の好きなように行えばよいのです。

それはそれで素晴らしいことで、自分はそれこそが「トライアスロン」の持つ本質的な魅力であると今は思っています。つまり大会に参加することがトライアスロンのすべてではないということです。

ライフスタイルとしてトライアスロンの3種目を楽しみ、爽快感を得て、健康になり、人生をより豊かにする。その魅力を自分が運営するスクールでは伝えています。

その一方で、非日常であるイベントであるトライアスロン大会に出場することも大きな魅力であることは紛れもない事実です。国体や日本選手権、アジア選手権、世界選手権などのエリートレースを目指して自分の人生を掛けることや、そういった競技者を応援することも楽しみ方の一つでしょう。

しかし、そこには絶対に忘れてはいけないことがあります。

スポーツイベントとしてのトライアスロンは、「順位とタイムを競う」という性質を持つ限り、「競技会」であり、「公平性」があってこそはじめて成立するものであるという点です。もちろん順位やタイムを競わないイベントがあってもよいと思いますし、普及のためには、もっとそういったイベントを増やすべきだと思います。

実際に伊勢志摩・里海トライアスロン大会の前日に開催した未就学児童を対象としたアクアスロン大会の「ちびっこアスロン」は、順位・タイムを競わない形で行いましたが、非常に微笑ましく、また一生懸命な姿が見ることができ、こうした原体験があってこそ、将来トライアスロンをやってみたという子供が増えるんだろうなと思います。

話を戻すと、「公平性」が保たれていない大会については、自分は出たくありません。極端な話をすると、周りの選手が全員ドーピングをしており、自分だけがしていない状況ではやる気を出すことはできません。

「ドラフティングルール違反」と「個人的援助」の代償とは?

トライアスロン大会における公平性が失われる要因の大きなものは「ドラフティングルール違反」と「個人的援助」だと自分は思います。

自分がJTUのエイジランキングに興味を失った大きな要因の一つが「ドラフティングルール違反」が無くならない、無くそうとしないという状況に対してです。そもそもドラフティングについて正しい知識を持たずに参加しているというケースも多いと思いますが…。

ドラフティング違反をしてまで結果を求めるトライアスリートたち。
またその行為を重大な問題として捉えず、改善のための手を打たない大会運営。そのような大会には、自分はもう参加しません。興味を失ったからです。

恐らく、真剣にトライアスロンに向き合っているトライアスリートほど、この意見に同意していただける方は多いのではないでしょうか?

もう一方の「個人的援助」についてです。
こちらも、ルールブックにしっかりと書かれています。

個人的援助の禁止とは「応援者から物(例えばドリンクや補給食など)を受け取ったり、選手間で助け合ったりしてはいけない」という事です。

つまり自分で用意した物だけを使って、自分の力だけで競技をせよ、という事ですね。もちろん大会側で用意したエイドステーションで水や補給食を受け取ることは問題ありません。

また私設エイドであっても、大会側が認めており、すべての選手に公平に提供されるもの(伊勢志摩大会の商店街の氷配りやシャワーなど)であれば、問題ないと考えます。

競技として真剣にトライアスロンに取り組んでいる方であれば、そんなことは当然じゃん?という話ですが、特にファッション(似非)アスリートに多いのが、そのような助け合い(個人的援助)の精神を「美談」と捉えててしまう傾向があるということです。

何でいけないの?それくらい多めに見ればいいじゃん!
という方に問いたいのですが、どこまでがよくてどこまでがダメという線引きはできますか?

恐らく自分の所属するチームの選手や友達だけに、そういった援助をする場合がほとんどだと思います。例えば、氷を渡す、水を渡す、コーラを渡す、背中を押す、伴走する…。

そのような助力があるかないかで、明らかにその援助された選手が有利になりますよね?
それにより、順位が入れ替わってしまうことも十分考えられます。
そこまであからさまなことはしないし、常識をわきまえているよという方もみえるかもしれません。しかし、ちょっと想像力を働かせてみてください。

このような行為は、「自分たちだけ」の問題ではないのです。
その光景を見た、子供や初心者の方はどう思うでしょうか?
トライアスロンはそういうルールなんだ、と思ってしうまうでしょう。
そうなってくると、あとは際限なく、個人的援助合戦になることでしょう。

あのチームがやっていたからうちもやろうよ!とか、あのチームに所属していれば、そういった援助が受けられるらしいよ?ということにもなるでしょう。もやはそれは公平なレース(競技)ではありません。

このような違反行為をその場の問題、「個人」の問題ではなく、「トライアスロン界全体」の問題として捉えることができるか否か?これは選手と大会運営者双方の問題だと自分は捉えています。

審判に見つからなかった、見られても注意されなかった、ペナルティを宣告されなかったから大丈夫、ではないのです。選手のモラル崩壊が、トライアスロンの衰退に繋がるのです。

また、より高いレベルを目指す選手であったとしたら、エイジの大会においては、ドラフティングルールを厳守するのはもちろんのこと、個人的援助を提供されたとしても、それを毅然とした態度で断ることが大切だと思います。

そのような「ドラフティングルール違反」や「個人的援助」について、注意をせずに、野放しにしている大会側にも問題があります。

またそのような行為を容認・助長しているスクール、チーム、ショップがあったとしたら…大いに反省して欲しいと思います。

それにより、競技として真剣に取り組むアスリートほど、トライアスロンへの興味を失っていくというのが今の現状なのです。(少なくとも自分=N1はそうです)

トライアスロンをオワコンにしないために

これは自分にとっても非常に耳の痛い話です。
なぜならば、今起きている現状に対して、スクール指導者として、また大会運営者として、そうしたことの重要性や大切さを、これまで伝えてこれなかった、伝えようとはしていたものの伝えきれていなかった、ということだからです。

自分を含めてトライアスロンに関わる人間の行動の結果が今のトライアスロン界の現状を作り出しているのだと思いますので、真摯に反省すべき点です。

ただこうなってしまった原因を正しく認識することは必要ですが、それを嘆いたり、ただ単に批判するのではなく、これからどうしていくか?が大切だと自分は思います。

勝った選手やオリンピックに出た選手が偉いのか?
そうではありません。
やはり、人間としての成長、つまり「魂」の成長がなければ、この世に生まれた意味はないと自分は思います。

では、自分にできることはなんなのか?と考えた時にできることはまだまだたくさんあるということに気づいたのも事実です。

臭い物に蓋をする、見て見ぬふりをする、ではダメだということです。
耳の痛い話もしなくてはいけまえせん。
また大会運営として、どうしたら公平なレースが開催できるか?をもっと多くの人と話し合い、突き詰めて考えていくべきだと思いました。

長くなりましたので、今後の取り組みや、まずは伊勢志摩大会で試してみたいことは、次回以降に回したいと思います。今回はこれで終わりますが、皆さんの考え方やご意見もぜひ聞かせて欲しいです。

このままトライアスロンを「オワコン」にしないためにも。